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弘法大師って? その2 

唐から帰国後の弘法大師

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四国別格霊場 第八番十夜ヶ橋(永徳寺)の野宿する大師像

大同元年(806)入唐より2年後帰国するが、
20年の予定の留学年限を繰り上げて帰国したため
上京は許されず、大宰府に留められる。
大同4年(809)嵯峨天皇の時、上京が許され高尾山寺に入る。
この年、最澄が経論の貸し出しを願い、その後たびたび
経典の貸し出しが続く。

弘仁元年(810)薬子の変が起こり、空海は鎮護国家のための
大祈祷をする。これにより空海の名は天下に広まり多くの人々が帰依した。

弘仁4年(813)最澄の「理趣釈経(りしゅしゃくきょう)」の
借用願いを断り、しかも最澄の弟子である泰範を
自分の弟子にしてしまう。ここで二人の関係は断たれる。

その後、四国を巡遊。その遺跡が四国八十八カ所霊場となっている。
また、全国を行脚して済世利民(さいせいりみん)の行に徹する。
弘仁7年(816)嵯峨天皇より高野山の地を賜り、
七里四方のこの山を真言密教護法の根本道場とし、
門弟育成の修行場とする。また、この時高野山を
自身の入定の地と定めたともいわれる。
弘仁12年(821)故郷の人々の要請と、天皇の命により
今まで3年がかりでもできなかった讃岐国満濃池の
改修工事を、わずか3ヶ月あまりで完成させ、
偉大な「マルチ人間空海」は土木技術の才も発揮する。
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 四国別格霊場 第十七番神野寺に建つ大師像
 日本最大・最古のため池、満濃池を見つめるように建つ

弘仁14年(823)嵯峨天皇から東寺を賜る。
この寺を密教の根本道場と定め、真言宗以外の宗派の
立ち入りを禁じる。そして寺号を教王護国寺と名づける。
天長5年(828)わが国最初の民間学校綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)
を東寺に開く。当時は、高い身分の子弟が学ぶ学校しかなく
空海は、大乗仏教の「人々はみな仏子である」という精神から
教育の機会均等を実現した。
天長7年(830)「秘密曼荼羅十住新論」(10巻)「秘蔵宝鑰」(3巻)を著し、
行きながらにして仏となる「即身成仏」の理論を完成させる。
承和2年(835)3月21日明け方、
弟子たちを集め遺訓を残して入定する。(空海62歳)
その86年後(921年)弟子たちの熱心な奏請により
醍醐天皇から「弘法大師」の号を賜る。
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そして今、「同行二人」の白衣姿のお遍路さんたちが
四国霊場の寺々を巡礼している。
私たちは「お大師さん」とともに
空海(弘法大師)の歩いた道を歩いている。
お遍路さんの数は年々増え続けている。
弘法大師は生き続けているのである。

   
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にこちゃん太王

Author:にこちゃん太王
誰でも行ける!
四国八十八ヵ所霊場巡礼
凸凹カルテットで回りました