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真言宗十八本山第十一番 随心院 

真言宗十八本山第十一番 
小野小町ゆかりの寺
随心院(ずいしんいん)
隨心院-小野小町JPG

●宗派/真言宗善通寺派大本山 
●本尊/如意輪観音 ●開基/仁海

●京都府京都市山科区小野御霊町35

随心院は、平安時代の正暦2年(991)に一条天皇から
寺地を下賜され、弘法大師から八代目の弟子にあたる
仁海が、牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひざんまんだらじ)を建立。
真言宗小野派の発祥の地ととなった。
隨心院-庫裡1
第5世住持の僧俊の時代に、曼陀羅寺の塔頭の一つとして
随心院が建てられた。
鎌倉時代の寛喜1年(1229)後堀河天皇から門跡の宣旨をうけ、
以来、小野曼荼羅寺御殿随心院門跡となる。
応仁の乱によりほとんどが焼失したが、江戸時代の慶長4年
(1599)九条家と二条家から門跡が入山され再興された。
隨心院-本堂
本堂は再建当時のもので、本尊如意輪観音や阿弥陀如来
像等が安置されている。
書院は徳川秀忠夫人天真院尼の寄進である。
隨心院
書院前庭園は素晴らしく、ゆっくりと腰を降ろしていつまでも
眺めていたい気持ちになる。また書院では、狩野派による
襖絵を見ることができる。(絵画はよくわからなくても、その
迫力には圧倒される。ただ写真撮影禁止なので紹介でき
ないのが残念です)
隨心院-庭1

真言宗は明治以降、対立と分派・合同を繰り返し、明治40年
には小野派本山となった。昭和6年に真言宗小野派を真言宗
善通寺派と改称。昭和16年には善通寺が総本山に昇格。
現在は、宗祖空海の生誕地に建つ善通寺が善通寺派総本山、
随心院は善通寺派大本山と位置づけられている。


noukyou-隨心院18の11 随心院の納経

●一口メモ/小野小町と深草少将
隨心院-小町井戸
随心院が建つ付近はこの地方の勢力者、小野一族の土地
であり、随心院境内は小町の旧跡と伝えられる。小町は
現在の随心院の「小町化粧の井戸」付近に住んでいた。
容姿端麗で和歌にすぐれた超美人だったとか・・・。
深草少将は、小町のもとへ訪ねたが小町は冷たかった。
少将は「あなたの心が溶けるまで幾夜でも参ります。
今日はその第一夜です」と、印として門前のカヤの実を
採って渡した。そして九十九夜、雪の夜であった。門前に
たどり着いた少将は九十九個目のカヤの実を手にしたまま
倒れてしまった。
少将が亡くなったことを知った小町が植えたというカヤの
木が境内にある。かつては九十九本あったという。

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真言宗十八本山第十番 勧修寺 

真言宗十八本山第十番
皇室と藤原氏にゆかりの寺
勧修寺(かじゅうじ)
勧修寺-山門

●宗派/真言宗山階派大本山 ●本尊/千手観音
●開基/醍醐天皇、承俊(開山)

●京都府京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6

寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅうじ」などとも読まれるが、
寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。山号は亀甲山。
しかし、山科区にある勧修寺○○町という地名の読み方は、
「かんしゅうじ」だそうだ。(ややこしい?!)
勧修寺-宸殿
寺伝によると、昌泰3年(900)醍醐天皇が、生母 藤原胤子の
追善のため造立させたという。胤子の父 藤原高藤の謚号(しごう)
をとって勧修寺と号した。開山した承俊は東大寺出身の僧。
勧修寺-書殿
代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、文明2年(1470)
兵火で焼失。江戸時代に徳川家と皇室の援助により復興された。
勧修寺-本堂
天永元年(1101)七世長吏となった寛信は真言密教の事相に通じ、
真言宗小野流の一派である勧修寺流の祖とされている。
後伏見天皇の第七皇子、寛胤法親王が十五世長吏となって以来
宮門跡寺院となり、幕末まで法親王ないし入道親王が入寺した。
勧修寺-観音堂
真言宗各派は明治以降、分派・合同を繰り返し、御室派、醍醐派
大覚寺派等に分裂。明治40年には当時の真言宗が解消されて
山階派、小野派、東寺派、泉涌寺派として独立。勧修寺は山階派
本山となった。その後真言宗は統合されたが、昭和27年再度
山階派として独立している。

noukyou-勧修寺  ●勧修寺の納経

●一口メモ/氷室の池
勧修寺-氷室の池
勧修寺氷池園と呼ばれる池泉庭園の中心にある「氷室の池」は
平安時代には1月2日にここに張った氷を宮中に献上して、その
厚さによって五穀豊穣を占ったと言われている。

勧修寺型燈籠
勧修寺-燈籠
書院前にある燈籠は徳川光圀寄進と伝えられ、樹齢750年と
言われる「ハイビャクシン」というひのき科の常緑樹が周りを
覆っている。

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にこちゃん太王

Author:にこちゃん太王
誰でも行ける!
四国八十八ヵ所霊場巡礼
凸凹カルテットで回りました