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2008年12月の記事一覧

金持神社 

金持神社
日本で一番縁起の良い名前の神社!
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●御祭神/天之常立命(あまのとこたちのみこと)・
       八束水臣津努命(やつかみずおみずぬのみこと)・
       淤美豆奴命(おみずぬのみこと)
       天之常立命を御祭神とする全国でも数少ない神社
       国土経営・開運・国造りの神様を祀る。
鳥取県日野町金持1490

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●由来/810年、出雲の神官の二男が、伊勢神宮参拝のため
      この地を通りかかったところ、お守りの目付け(玉石)が
      急に重くなり、この地に宮造りするよう神夢があったので
      宮造りしたと伝えられる。
(金持郷は昔、黄金より勝るといわれた「玉鋼」の産地で、砂鉄の取れる
谷を多く所有し、鉄のことを「かね」と読んでいたことから、「金持」と
呼ばれるようになったという)

この地の豪族、金持景藤(かもちかげふじ)は1333年、
隠岐を脱出された後醍醐天皇を奉じて倒幕の軍に参加し
大活躍した。その際、金持神社に必勝祈願し、神前の戸帳を
御旗にしたと伝えられている。
京都への遷幸の折には、天皇の右側に名和長年公・
左側が金持景藤公で「錦の御旗」を持ち上洛したという。

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境内には、鳥取県銘木100選中、サワラ、チャンチンの2本があり
樹齢600年位と言われている。
サワラは、神社遷宮の際に屋根のコワ材として利用するために
植えられたものと考えられている。
チャンチンはセンダン科の薬木で、果実は目薬に用い、中国より
取り寄せたものと考えられている。鳥取県内ではこの1本しか
確認されていないという。

☆おまけ
 この金持神社は「知る人ぞ知る?」結構有名な神社!
 「ロト当たりました」とか「宝くじ1等が当たりましたありがとう」とか
 「パチンコで大勝したのでお礼に来ました」などの絵馬が奉納されている。
 ここへ来たおかげで「商売繁盛」とか「ギャンブルに強くなった」
 とかの話も多数あるそうです。
 ちなみに私はもう3回目の参拝なので、今回は宝くじが当たるかも?






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出雲大社2 

出雲大社2
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神話の国・出雲には数々の物語が残る。
有名な話では「国引き」や「因幡の白ウサギ」等がある。

その中で「八岐大蛇と草薙の剣」を紹介してみよう。
高天原(たかまがはら)でのスサノオ(須佐之男命)の荒々しい
行動は、姉である天照大神を天岩戸に隠れさせるという事態を招き
スサノオは髪を抜かれ、手足の爪を抜かれて追放された。
スサノオは出雲の国で、うちひしがれる老翁と老婆と少女に出会い
ヤマタノオロチが原因と知る。そこで、大蛇に酒を飲ませるなどし、
大蛇を寸断したところ、尾を切った時に剣の刃先が欠けた。
そこで、尾を切っていくと中に一つの剣があった。
「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)」という。
(この名はヤマタノオロチの頭上に常に叢雲がかかっていたためとされる)
これを神剣として天照大神に献上したという。
その後、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征に向かう時に
倭姫命(やまとひめのみこと)から譲り受け、焼津で焼き討ちにあったときに
この剣で草を薙いで窮地を脱したという。
この話から「天叢雲剣」は「草薙の剣」と追銘されたという。

余談だがこの剣は熱田神宮の御神体として安置されているという。
(写真は熱田神宮)
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他にも誰でも知っている「因幡の白ウサギ」の像も見られる。
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出雲大社1 

出雲大社(いずもおおやしろ)
縁結びの神社として有名な出雲大社
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神の国・神話の国 出雲。その中心が「大国主大神」
(おおくにぬしのおおかみ)をおまつりする出雲大社です。
「だいこくさま」と慕われる大国主大神には多くの別名がある。
大己貴神(おおなむちのかみ)・大物主神(おおものぬしのかみ)
大地主神(おおとこぬしのかみ)・大穴持神(おおなもちのかみ)
八千矛神(やちほこのかみ)・葦原醜男神(あしはらしこおのかみ)
大国魂神(おおくにたまのかみ)・顕国魂神(うつしくにたまのかみ)
奇甕魂神(くしみかたまのかみ)・広矛魂神(ひろほこたまのかみ)
所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)・
伊和大神(いわのおおかみ)・幽冥事知食大神(かくりごとしろしめすおおかみ)
など。これらの御神名にはそれぞれの御神徳があり、
大国主大神の御神徳がいかに広く深いものかうかがわれる。
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出雲の神といえば「縁結びの神様」として有名だが、
単に男女の縁結びではなく、人間がりっぱに成長するように、
社会が明るく楽しいものであるように、すべてのものが幸福であるようにと、
お互いの生成のためのつながりが結ばれることだという。
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本殿は、高さ約24m。大社造りと呼ばれる日本最古の神社建築様式。
本殿をつつむかのようにそびえる八雲山(やくもやま)を背景に
堂々とした姿を見せている。
拝殿は、昭和28年5月に不慮の火のために焼失。昭和34年に
総工費1億1千万円をかけ戦後の本格的な木造建築として
屈指の規模を誇る新拝殿が完成。通常は参拝者の御祈祷や
古伝新嘗祭等のお祭りの他、さまざまな奉納行事が行われる。
平成の大遷宮
現在の国宝御本殿は、延享元年(1744)に遷宮造営され、以来、
文化6年(1809)、明治14年(1881)、昭和28年(1953)と
3度にわたり遷宮修造されてきた。そして平成20年4月20日に
御仮殿(現拝殿)に遷す「仮殿遷座祭」が行われ、御修造がととのう
平成25年5月にはもとの御本殿に遷されるという平成の大遷宮が
行われている。

現存12天守(その6) 松江城 

松江城(まつえじょう)
別名・千鳥城 
中国地方の県庁所在地に所在する唯一の現存天守
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松江市街の北部にに位置し、南に流れる大橋川を外堀とする
輪郭連郭複合式平山城である。現存12天守の一つで、
天守閣の平面規模では2番目、高さでは3番目、古さでは
6番目である。昭和10年に国宝に指定されたが、昭和25年の
文化財保護法の制定により「重要文化財」と改称された。
慶長十六年(1611)出雲の領主・堀尾吉晴が5年の歳月をかけて完成した。

天守閣は、附櫓(つけやぐら)を加えた複合天守で、高さ30m、
外観5層、内部は6階となっており、最上階は望楼式で、
下見板張りの壁や狭間、石落としなど実践本意で安定感のある
無骨な体裁に、桃山様式の荘厳雄大な姿を伝えている。

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●地階と井戸
 地階(穴蔵の間)は、籠城用生活物資の貯蔵倉庫。
 中央に、深さ24mの井戸がある。北方の池の底とほぼ同底といわれ
 常時飲料水が得られたという。
●桐の階段
 板の厚さ10cm、階段幅1.6m。1階から4階の各界の間に設けてある。
 階段を引き上げたり、防火防腐のために桐を使ったもので、
 他の城では見られない特殊なものである。
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●寄木柱
 柱は肥え松の一本の柱の外側に、板を揃えて寄せあわせ、
 これを金輪で締めて太い柱が作られている。
 この寄木柱の方が、普通の柱より力学的に強く、
 吉晴の苦心の作である。

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明治の初め、全国の城はほとんど壊されたが、松江城の天守は
地元の豪農勝部本右衛門、旧藩士高城権八ら有志の奔走によって
山陰で唯一保存され、松江のシンボルとして親しまれている。

櫓3棟復元
かつて二の丸には、御門・東の櫓・太鼓櫓・中櫓・南櫓・御月見櫓があった。
このうち、太鼓櫓と中櫓・南櫓の3基の櫓は、平成13年に復元。

城主は堀尾忠晴、京極忠高の後、徳川家康の孫にあたる
松平直政が信州松本から移封され、以来、松平氏10代
234年間にわたって出雲国を領した。
(松平直政は徳川家康の子、結城秀康の三男。
慶長19年、大坂冬の陣玉造門の攻防戦に14歳で初陣。
敵将真田幸村はその武勇を讃え軍扇を投じたという)

現存12天守(その5) 備中松山城 

備中松山城(びっちゅう まつやまじょう)
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岡山県高梁市街の北端にそびえる臥牛山(標高約480m)
北から「大松山」・「天神の丸」・「小松山」・「前山」の四つの峰からなり
南から見た形が、草の上に伏した老牛の姿に似ているので
「老牛伏草山」とか「臥牛山」などと呼ばれている。
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備中松山城はこの内の小松山の山頂(標高430m)を中心に築かれた
城郭で、天守の現存する山城としては随一の高さを誇る。
この高さのおかげで、明治時代の廃藩置県の時に取り壊しを免れたという。
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城内には天守をはじめ、二重櫓、土塀の一部が現存し
昭和16年には国宝(昭和25年の文化財保護法の制定により
重要文化財)に指定された。
平成9年には重要文化財を中心に、本丸南御門、東御門、
腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓土塀などを史実に
基づいて復元。
平成15年には、傷みが進んだ天守の保存修理が行われた。
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この城の歴史は古く、鎌倉時代に有漢郷(うかんのごう)の地頭に
任ぜられた「秋庭三郎重信」(あきばさぶろうしげのぶ)により
臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まる。
その後、小松山に移り、城の縄張りは時代とともに変化するが
天正二年(1574)に起こった「備中兵乱」時は、「砦二十一丸」と呼ばれた
出丸が築かれていたことが記録に残っており、臥牛山全域が
一大要塞となっていたことがうかがえる。
当時の城主の三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、
毛利氏が防長二国に退いてからも、備中国奉行の小堀正次・政一
父子により修改築がなされるなど、備中の要衝としての役割を担っていた。
江戸時代に入ると目まぐるしく城主が変わったが、現存する天守などは
天和三年(1683)水谷勝宗(みずのやかつむね)により
修築されたものと伝えられている。

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城見橋公園駐車場からシャトルバスが出ていて、ふいご峠の
駐車場まで行ける。(たぶんバスは休日のみだと思う)
ここから、石段と山道が続く。15分~20分歩くと到着。
ここから見る高梁市街の眺望も素晴らしい!
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余談だが、「山田洋二」監督はこの高梁の町並みや風景が気に入り
有名な映画「男はつらいよ」シリーズの舞台に、二度も登場させている。






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にこちゃん太王

Author:にこちゃん太王
誰でも行ける!
四国八十八ヵ所霊場巡礼
凸凹カルテットで回りました