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2008年04月の記事一覧

民衆仏教の幕開け 

民衆仏教の幕開け!
延暦13年(794)桓武天皇は、腐敗した仏教界に毒された
律令体制の立て直しをはかり、都を平安京に遷都。
平城京遷都では、有力寺院も新都に移されたが、
平安京に移る時は奈良に残してきた。
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戦乱・天災・疫病等で世は乱れ、民衆は末法の世におびえ
南都(奈良)仏教に替わる新しい仏教が切望されていた。
そんな時に登場したのが、唐から帰ってきた二人の留学僧
最澄と空海(弘法大師)だった。
最澄の開いた天台宗と、空海が開いた真言宗は、
ともに鎮護国家の仏教としての役割を果たすとともに、
得度・受戒の権限を国家から取り戻し、民衆救済の
実践仏教の基盤となる。
それは現代につながる日本の仏教の源となっている。

(浄土真宗本願寺派総本山 西本願寺)
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鎌倉時代になると、法然の浄土宗(念仏による往生を説く)
栄西の臨済宗・道元の曹洞宗(宋から禅を伝える)
法然の弟子・親鸞の浄土真宗(本願念仏による往生を説く)
そして日蓮の日蓮宗(唱題目による永遠の救いを説く)などの
仏教宗派が成立した。
平安時代までの国家や貴族中心の「旧仏教」に対し、
「鎌倉新仏教」は、万民を救済の対象としており、
念仏・禅・題目と、その教えは分かりやすく、また誰にでも
できることから、民衆の心をつかんでいった。
また、開祖がいずれも比叡山で修行し、そこから離脱して
新しい教えを創立したという共通点を持つ。
とはいえ、鎌倉新仏教の基礎は、最澄そして空海(弘法大師)が
築いたものといえよう。

※末法とは?
  釈迦の死後を正法・像法・末法の三つの時代に分ける。
  釈迦の教えが正しく行われている時代が正法、
  やがて形だけの像法の時代になり、末法になると
  仏道修行をしても効果が無いとされる。
  最澄は永承7年(1052)に末法に入ると説き、戦乱や
  災害が続く毎日に、民衆も危機感を抱いていた。

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真言宗の流れ 

真言宗の流れ
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平安時代初期、空海(弘法大師)によって唐より伝えられた真言密教は、
真言宗として発展し、空海の入定後も、高野山や東寺等を中心に
多くの名僧を輩出し全国に広まった。
そして、その一方で多くの流派に分裂していった。
大きく分けると、新義真言宗古義真言宗となる。

真言宗豊山派総本山 長谷寺)
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新義真言宗は、興教大師覚鑁(かくばん)に始まる法流である。
高野山座主であった覚鑁は、高野山の衆徒たちとの対立で
高野山をおりて、根来寺に活動の場を移した。
現在では、真言宗豊山派(総本山 長谷寺)、真言宗智山派
(総本山 智積院)、そして根来寺を総本山とする新義真言宗
の三つが、その流れをくむ。

(真言宗智山派総本山 智積院)
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新義真言宗に対し、高野山に残った流れを古義真言宗と呼ぶ。
高野山真言宗(総本山 金剛峯寺)、真言宗醍醐派(総本山 醍醐寺)
東寺真言宗(総本山 教国護国寺・東寺)、真言宗泉湧寺派
(総本山 泉湧寺)、真言宗山階派(総本山 観修寺)、真言宗御室派
(総本山 仁和寺)、真言宗大覚寺派(総本山 大覚寺)、真言宗善通寺派
(総本山 善通寺)、真言律宗(総本山 西大寺)等。

(東寺真言宗総本山 教王護国寺・東寺)
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しかし、新義真言宗古義真言宗もともに真言宗であり
空海(弘法大師)の思想を受け継いでいるので、
大きな違いがあるわけではない。


弘法大師(空海)と高野山 2 

弘法大師(空海)と高野山 (その2)
(四国別格霊場第六番 龍光院に立つ大師像)
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四国霊場八十八ヵ所を回り終えたお遍路さん高野山へ参拝する。
本堂である金剛峯寺にも参拝するが、お遍路さんの目的(?)は
奥の院弘法大師御廟)である。
真言宗では、弘法大師が他界されたことを入滅・入寂とは言わず
「入定(にゅうじょう)された」という。
これは、「大師は亡くなられたのではなく、大日如来の世界に
帰一されて生きつづけており、衆生を救ってくださる。」という
信仰によりものである。ゆえに、お遍路さんは大師が入定された
高野山奥の院」に大師を慕い参拝するのである。
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一の橋から奥の院弘法大師御廟」の間には墓原が広がる。
ここには、たくさんの墓碑が林立し、その墓域を彩る人物も多彩である。
ここに宗派を問わずおびただしい墓が営まれることになったのは、
この山が弥勒菩薩の下生の地と広く信じられたことによるという。
釈迦入滅後56億7000万年後に現れ衆生を救うという弥勒菩薩が
下りてくる地が高野山だということは、弘法大師も「御遺告」の中で
言明している。そのため人々は死後もその救済にあずかろうとして
ここ高野山に墓所を設けることに努めた。
戦国時代以降この傾向は特に加速を見る。
それは、常に死と向かい合っている戦国大名たちが、高野山
信仰を寄せ、死後の菩提を祈念しようとしたからである。
また、秀吉や徳川幕府などの時の権力者たちが、高野山を
あつく保護したことが、高野山の霊性を高めた。
江戸時代には幕府が21000石の寺領を認め、外護を明確にしたので
山内には大小の塔堂が建ち、それぞれに各地の大名家と関係を持ち
繁栄したという。
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弘法大師入定信仰
空海(弘法大師)は生前、密厳浄土と即身成仏を説いた。
また、空海は密教の理解と実践において、いかなる人物の
追随をゆるさない卓越した第一人者であった。
そのため、空海が没した時「空海は、見事即身成仏をとげた」
という信仰が生じたといえる。
繰り返すが、即身成仏は死ではない。生きながら仏になることである。
だから空海は死んだのではなく、今なお生きて永遠の禅定に入り、
衆生を見守り続けている。と弟子たちや信者はそう信じた。
このようにして成立した空海の入定信仰は、高野山の教義の
一大特色をなしており、山内では現在でも弘法大師御廟の前に
毎日、食事やお茶をお供えしている。

弘法大師(空海)と高野山 

弘法大師(空海)と高野山 (その1)
高野山真言宗総本山・金剛峯寺
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高野山は標高850mの紀伊山地に開いた東西5.5km、
南北2.2kmの盆地状の地で周囲は、転軸山・楊柳山・弁天岳・
摩尼山など八つの峰々に囲まれている。
その有様はあたかも巨大な八枚の蓮の花弁のようだ。
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(雪のちらつく高野山金剛峯寺

弘仁7年(816)に、真言密教修禅寺院の金剛峯寺建立を
嵯峨天皇に願い出て許される。
金剛峯寺は「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祗経」
(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)から名づけられたもので
高野山の総称である。(現在は総本山である金剛峯寺をさす)
空海は、真言密教思想を具現化する独特の伽藍建立をめざしたという。
が、その造営は空海一代では終わらず、空海の弟子の二世真然の代に
もちこされ、金剛峯寺の伽藍が整備されたのは、空海入定から
54年後のことであったという。
また1200年にも及ぶ高野山の歴史を見ると、落雷の直撃を受け
諸堂がほとんど灰燼に帰すなど、伽藍焼失と再建を繰り返し、
荒廃を極めたこともある。しかしそのたびごとに、高野山に対する
人々の厚い信仰心や、朝廷・公家や武士などの外護者により
不死鳥のようによみがえってきた。
こうした中で、高野山は宗派を越えた「幅広い仏教信仰霊場の山」
という性格を強めていった。
その信仰の根底には「高野山は弘法大師空海入定の霊山である」
とする、高野山浄土信仰観が流れている。
(※入定とは、生死を超えた境地に入ること)
中世になると、高野山は戦国武将なみの武力を持ち、
信長や秀吉から討伐の兵を差し向けられるというようなこともあった。
近代に入り、明治の廃仏毀釈の嵐をくぐりぬけ、教団の近代化に
つとめた高野山は、東寺とともに古義真言宗の総本山となった。
昭和21年には高野山真言宗を設立し現在に至っている。
現在の高野山は壇上伽藍と呼ばれる根本大塔・金堂不動堂・
御影堂などがある地域、金剛峯寺・明王院などからなる本中院谷
さらに千手院谷、そして、弘法大師の御廟がある奥に院に分かれている。


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にこちゃん太王

Author:にこちゃん太王
誰でも行ける!
四国八十八ヵ所霊場巡礼
凸凹カルテットで回りました