四国霊場八十八ヵ所
四国(霊場)は弘法大師と心を通わせる聖地! 四国が誇る文化遺産四国霊場八十八ヵ所を紹介! でもあまり難しく考えずにお気軽に・・・。
松山城5(おまけ)
松山城5(おまけ)
今回は彦根城を紹介
国宝に指定されている現存天守のある4城の一つ
別名「金亀城(こんきじょう)」

多くの大老を輩出した譜代大名の名門、彦根藩井伊氏14代の居城。
徳川四天王の一人・井伊直政は慶長5年(1600)関が原の戦いの後
その軍功により18万石にて近江国北東部に封じられ、佐和山城に入城。
直政は、石田三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山に居城を
移すことを計画していたが、慶長7年(1602)死去した。
その後、直継が家督を継いだが幼少であったため、直政の遺臣が
慶長8年(1603)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山・現在の場所)に
彦根城の築城を開始した。

長浜城・佐和山城・大津城など近隣の城の遺材を転用した。
慶長11年(1606)二期までの工事が完了、慶長12年の
天守完成と同時に直継が入城。
元和2年(1616)第三期工事が開始。元和8年(1622)
全ての工事が完了し彦根城が完成した。

嘉永7年(1854)に天秤櫓の大修理が行われ、石垣の半分が積み直され
橋の手前下の石垣が築城当時からの「ごぼう積み」向こう側が
新たに積み直された「落とし積み」となっている。
(天守へ登るにはこの橋の下を通るので見てください。)
井伊氏は加増を重ね最終的には譜代最高となる35万石になっている。
幕末の大老を務めた井伊直弼が、藩主となるまでの間に過ごした屋敷は
「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している。

天守等7棟が昭和26年に重要文化財に指定。
うち2棟(天守、附櫓及び多聞櫓)が昭和27年に国宝に指定された。
昭和26年6月9日に国の特別史跡に指定された。
これは姫路城の指定より5年も早い。

また「武士の一分」「大奥」等、
数多くの映画・ドラマのロケ地としても使われている。

天守からは彦根の町並みや琵琶湖が一望でき
四季折々の眺望は素晴しい。
今回は彦根城を紹介
国宝に指定されている現存天守のある4城の一つ
別名「金亀城(こんきじょう)」

多くの大老を輩出した譜代大名の名門、彦根藩井伊氏14代の居城。
徳川四天王の一人・井伊直政は慶長5年(1600)関が原の戦いの後
その軍功により18万石にて近江国北東部に封じられ、佐和山城に入城。
直政は、石田三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山に居城を
移すことを計画していたが、慶長7年(1602)死去した。
その後、直継が家督を継いだが幼少であったため、直政の遺臣が
慶長8年(1603)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山・現在の場所)に
彦根城の築城を開始した。

長浜城・佐和山城・大津城など近隣の城の遺材を転用した。
慶長11年(1606)二期までの工事が完了、慶長12年の
天守完成と同時に直継が入城。
元和2年(1616)第三期工事が開始。元和8年(1622)
全ての工事が完了し彦根城が完成した。

嘉永7年(1854)に天秤櫓の大修理が行われ、石垣の半分が積み直され
橋の手前下の石垣が築城当時からの「ごぼう積み」向こう側が
新たに積み直された「落とし積み」となっている。
(天守へ登るにはこの橋の下を通るので見てください。)
井伊氏は加増を重ね最終的には譜代最高となる35万石になっている。
幕末の大老を務めた井伊直弼が、藩主となるまでの間に過ごした屋敷は
「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している。

天守等7棟が昭和26年に重要文化財に指定。
うち2棟(天守、附櫓及び多聞櫓)が昭和27年に国宝に指定された。
昭和26年6月9日に国の特別史跡に指定された。
これは姫路城の指定より5年も早い。

また「武士の一分」「大奥」等、
数多くの映画・ドラマのロケ地としても使われている。

天守からは彦根の町並みや琵琶湖が一望でき
四季折々の眺望は素晴しい。
松山城4(おまけ)
松山城4(おまけ)
今回は国宝犬山城を紹介!
唯一個人所有の国宝の城
(平成16年4月財団法人「犬山城白帝文庫」が設立され
城の所有者は成瀬家から財団法人になった。)

天文6年(1537)現在地に天守が造営され、織田信長の叔父
織田信康が城主になったが、天文16年稲葉山城で戦死、
その子信清が城主」となった。
その後何代か城主が代わり文禄4年(1595)石川光吉が城主となり
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、小笠原吉次が入城。この両氏の
手によって、今世の犬山城が完成された。
元和3年(1617)成瀬正成が城主になってから代々成瀬家の子孫に
受け継がれ、犬山城は成瀬家の城下町として発展した。
明治4年廃藩置県で廃城となり、天守を除くほとんどは取り壊された。
明治24年濃尾震災で天守の東・南と西北の付櫓・城門が壊れたので
同28年旧犬山藩主正肥に城を修理するという条件で譲られ、唯一の
個人所有として現在に至っている。(平成16年より財団法人所有となる)
昭和2年11月20日天皇陛下が登閣され、同10年5月13日に
国宝に指定された。
昭和36年4月から解体修理を始め昭和40年3月2日竣工復元した。
☆一口メモ/白帝城の命名
江戸時代の儒者「荻生徂徠」が李白の詩からとって
命名したと伝えられている。
「朝に辞す白帝彩雲の間 千里の江陵一日にして還る
両岸の猿声啼きやまざるに 軽舟すでに過ぐ万重の山」
今回は国宝犬山城を紹介!
唯一個人所有の国宝の城
(平成16年4月財団法人「犬山城白帝文庫」が設立され
城の所有者は成瀬家から財団法人になった。)

天文6年(1537)現在地に天守が造営され、織田信長の叔父
織田信康が城主になったが、天文16年稲葉山城で戦死、
その子信清が城主」となった。
その後何代か城主が代わり文禄4年(1595)石川光吉が城主となり
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、小笠原吉次が入城。この両氏の
手によって、今世の犬山城が完成された。
元和3年(1617)成瀬正成が城主になってから代々成瀬家の子孫に
受け継がれ、犬山城は成瀬家の城下町として発展した。
明治4年廃藩置県で廃城となり、天守を除くほとんどは取り壊された。
明治24年濃尾震災で天守の東・南と西北の付櫓・城門が壊れたので
同28年旧犬山藩主正肥に城を修理するという条件で譲られ、唯一の
個人所有として現在に至っている。(平成16年より財団法人所有となる)
昭和2年11月20日天皇陛下が登閣され、同10年5月13日に
国宝に指定された。
昭和36年4月から解体修理を始め昭和40年3月2日竣工復元した。
☆一口メモ/白帝城の命名
江戸時代の儒者「荻生徂徠」が李白の詩からとって
命名したと伝えられている。
「朝に辞す白帝彩雲の間 千里の江陵一日にして還る
両岸の猿声啼きやまざるに 軽舟すでに過ぐ万重の山」
松山城3(おまけ)
松山城3(おまけ)
今回は国宝松本城を紹介。
現存する日本最古の風格ある五重天守!

戦国時代の永正年代に造られた深志城が始まり。
信濃の守護小笠原氏が館を林地区に移すと、家臣たちも
館を取り囲むように支城を構えて守りを固めた。
深志城もこの頃に、林城の前面を固めるために作られたという。
その後武田信玄が小笠原氏を追い、この地を占領し
信濃支配の拠点とした。
天正十年(1582)小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて
深志城を回復し、名を松本城と改めた。
その後秀吉により徳川家康が関東に移封されると、小笠原氏も
家康に従い下総に移転。秀吉は石川数正を松本城に封じた。
数正・康長親子は、城と城下町の整備に力を尽くし、康長の代には
天守三棟(天守・乾小天守・渡櫓)はじめ御殿・太鼓門・黒門・
櫓・塀等を造り、本丸・二の丸を固め、三の丸に武士を集め、
城下町の整備も進めた。松本城の基礎はこの時に固まった。
天守の築造は文禄二年から三年(1593〜4)と考えられている。
松本城は、戦うための堅牢な天守と、平和な時代に造られた
優雅な辰巳附櫓(たつみつけやぐら)・月見櫓等があり、
歴史的・文化的・美的価値も見逃せない。
今回は国宝松本城を紹介。
現存する日本最古の風格ある五重天守!

戦国時代の永正年代に造られた深志城が始まり。
信濃の守護小笠原氏が館を林地区に移すと、家臣たちも
館を取り囲むように支城を構えて守りを固めた。
深志城もこの頃に、林城の前面を固めるために作られたという。
その後武田信玄が小笠原氏を追い、この地を占領し
信濃支配の拠点とした。
天正十年(1582)小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて
深志城を回復し、名を松本城と改めた。
その後秀吉により徳川家康が関東に移封されると、小笠原氏も
家康に従い下総に移転。秀吉は石川数正を松本城に封じた。
数正・康長親子は、城と城下町の整備に力を尽くし、康長の代には
天守三棟(天守・乾小天守・渡櫓)はじめ御殿・太鼓門・黒門・
櫓・塀等を造り、本丸・二の丸を固め、三の丸に武士を集め、
城下町の整備も進めた。松本城の基礎はこの時に固まった。
天守の築造は文禄二年から三年(1593〜4)と考えられている。
松本城は、戦うための堅牢な天守と、平和な時代に造られた
優雅な辰巳附櫓(たつみつけやぐら)・月見櫓等があり、
歴史的・文化的・美的価値も見逃せない。
松山城2(おまけ)
松山城2(おまけ)
松山城のことではないが、現存12天守の何ヵ所かを紹介!
●世界文化遺産 国宝 姫路城

元弘3年(1333)播磨の守護職「赤松則村」がここに砦を築き、
その子「貞範」が正平元年(1346)城を構えたことに始まる。
最近では築城は16世紀中頃だとする説もある。
天正8年(1580)西国攻略の根拠地として羽柴秀吉が入城し
翌9年、3層の天守閣が完成。
関が原の役後、池田輝政が入封し、慶長6年(1601)から
8年の歳月をかけ城域を拡張し、姫山に5層7階の天守を築いた。
その後入封した本多忠政は、西の丸を整備。元和4年(1618)
今日に見る姫路城の全容を整えた。

現在、大天守と三つの小天守、これらを結ぶ渡櫓(以上国宝)を始め
化粧櫓など櫓27棟、門15棟、土塀約1000m(以上重要文化財)の
建造物と、内濠・中濠の大部分が残っており、中濠以内は特別史跡に
指定されている。
日本にも「名城」と呼ばれるものは数多くあるが、ここ姫路城は別格!
文句なしに「日本一」の名城である。
またテレビの時代劇にも「江戸城」としてよく登場する。
松山城のことではないが、現存12天守の何ヵ所かを紹介!
●世界文化遺産 国宝 姫路城

元弘3年(1333)播磨の守護職「赤松則村」がここに砦を築き、
その子「貞範」が正平元年(1346)城を構えたことに始まる。
最近では築城は16世紀中頃だとする説もある。
天正8年(1580)西国攻略の根拠地として羽柴秀吉が入城し
翌9年、3層の天守閣が完成。
関が原の役後、池田輝政が入封し、慶長6年(1601)から
8年の歳月をかけ城域を拡張し、姫山に5層7階の天守を築いた。
その後入封した本多忠政は、西の丸を整備。元和4年(1618)
今日に見る姫路城の全容を整えた。

現在、大天守と三つの小天守、これらを結ぶ渡櫓(以上国宝)を始め
化粧櫓など櫓27棟、門15棟、土塀約1000m(以上重要文化財)の
建造物と、内濠・中濠の大部分が残っており、中濠以内は特別史跡に
指定されている。
日本にも「名城」と呼ばれるものは数多くあるが、ここ姫路城は別格!
文句なしに「日本一」の名城である。
またテレビの時代劇にも「江戸城」としてよく登場する。
松山城
松山城1
松山城は、松山市の中心部勝山山頂(132m)に本丸があり、
松山市内からなら、ほぼどこからでも見える松山市のシンボル!

慶長7年(1602)加藤嘉明が築城を開始し、完成までに
約25年もの歳月を要した四国最大の城郭である。
わが国最後の完全な城郭建築といわれる大天守の上からは
360度の眺望が開け、松山平野や西日本最高峰の石鎚山
そして瀬戸内海国立公園が見渡せ、絶景である。
日本三大平山城や日本三大連立式平山城に数えられる。
また、日本に12ヵ所しか現存していない江戸時代以前に
建造された天守の一つである「現存12天守」でもある。
現存12天守(国宝4城・重要文化財8城)
弘前城・松本城・丸岡城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城
備中松山城・丸亀城・宇和島城・高知城そして松山城。
12ヵ所の内、四国に4ヵ所愛媛に2ヵ所ある。
※文字の濃い色の城が国宝に指定されている。

指定文化財は多く21棟が国の重要文化財に指定されている。
松山城は、松山市の中心部勝山山頂(132m)に本丸があり、
松山市内からなら、ほぼどこからでも見える松山市のシンボル!

慶長7年(1602)加藤嘉明が築城を開始し、完成までに
約25年もの歳月を要した四国最大の城郭である。
わが国最後の完全な城郭建築といわれる大天守の上からは
360度の眺望が開け、松山平野や西日本最高峰の石鎚山
そして瀬戸内海国立公園が見渡せ、絶景である。
日本三大平山城や日本三大連立式平山城に数えられる。
また、日本に12ヵ所しか現存していない江戸時代以前に
建造された天守の一つである「現存12天守」でもある。
現存12天守(国宝4城・重要文化財8城)
弘前城・松本城・丸岡城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城
備中松山城・丸亀城・宇和島城・高知城そして松山城。
12ヵ所の内、四国に4ヵ所愛媛に2ヵ所ある。
※文字の濃い色の城が国宝に指定されている。

指定文化財は多く21棟が国の重要文化財に指定されている。



