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気軽にお遍路さんの記事一覧

鎌大師2 

鎌大師2
「人生は路上にあり」
手束妙絹(てつかみょうけん)さんの著書より
鎌大師-2
鎌大師と言えば、庵主さんの手束妙絹さんが有名だった。
過去形なのは、2003年4月30日の誕生日(95歳)をもって
鎌大師堂の庵主を引退されたからです。
妙絹さんに逢いたくて、お話をしたくてここへ立ち寄る人は
多かったという。時間が許す限り話を聞いたり、また一緒に
お参りしたりしていました。

妙絹さんの言葉を紹介します。
「あなたが今こうして歩いてお遍路をできることが一番幸せな
ことではありませんか。お遍路ができる身体、宿に泊まれるだけの
お金、そしてこの四国を廻れること、この上あなたは何を望むの
ですか?仏様にお願いしてはいけません。感謝すべきものです」
四国遍路の途中で鎌大師に寄り悩みや苦しみを訴える人たちへ・・。
何冊か著書があるので興味のある人はどうぞ。


一茶の道
俳人小林一茶がこの地を訪れたのは、寛政7年(1795)旧1月13日
のこと、鴻の坂からこの地を通り松山へ向かったとされる。
一茶の来遊170周年を記念して、昭和39年1月ゆかりの地に
句碑を建立し、また鴻の坂から門田邸にいたる一茶がたどったで
あろう道を「一茶の道」として、道標などの設置をした。
鎌大師-風景
鴻の坂の近くにある三好造園さんの庭から眺めた瀬戸内海国立
公園の絶景!霞がかかった瀬戸内海もまた良い!
時代は違うが、一茶も同じような景色を眺めたはず・・・。
八反地の門田邸に泊まった時に詠んだ一茶の句。
「門前や何万石の遠がすみ」

●一口メモ/エヒメアヤメイヨスミレ
エヒメアヤメ
国指定天然記念物。ここが自生地の南限と言われている。
絶滅の危険性が極めて高いとされ、地元難波地区老人クラブ
のみなさんが守っている。

イヨスミレ
明治31年松山市の梅村甚太郎氏が発見。イヨスミレと命名し
発表した。ところが山の樹木繁茂とともにその姿を消した。
しかし、昭和56年の山火事の翌年、焼け跡から再発見された。

鎌大師-3
この大師像が鎌大師へ導いてくれる。

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鎌大師 

鎌大師(かまだいし)
四国霊場ではないが、知る人ぞ知る?お堂!
鎌大師-1
鎌大師堂/松山市下難波甲1063
平安時代、弘法大師が四国巡行の途中、草を刈りながら泣く童子を
見つけ、わけを聞くと「疫病が流行し、姉が死に弟も患っており
皆死んでしまうのではないかと心配で・・・」と言う。
大師はこれを憐れみ童子の持っていた鎌で自分の像を刻み
これに祈願するようにと言い残して立ち去ったという。
その言葉どおりにすると病人は快癒し、疫病も消滅した。
その大師像を本尊としてこの地に堂を建て「鎌大師」と呼んで
深く信仰されてきたと言い伝えられる。
昭和48年境内にある芭蕉塚十八人塚、大師松と合わせて
文化財に指定されたが、大師松は平成六年に枯死してしまった。

鎌大師-芭蕉
芭蕉塚
寛政5年(1793)、芭蕉100回忌に当たりその遺徳をしのぶ
人々によって建てられたもの。碑には句が刻まれてはいないが、
県下でも古い芭蕉塚の一つといわれている。

鎌大師-十八人
十八人塚
建武2年(1335年)、赤橋武蔵野守重時は烏帽子城(えぼうしじょう)
(現在の恵良山)に拠っていたが、土居、得能連合軍に攻められ
重時ら主従十八人が自刃した。彼らを葬ったと伝えられるのが
境内南西面ある古墳内に祀られている。

※鎌大師2に続く

高野山7(奥の院2) 

高野山7奥の院2)
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高野山に残る話を一つ・・・
延喜21年(921)10月27日、観賢(かんげん)僧正たちの尽力により
空海に「弘法大師」という諡号(しごう)が、寛平法王より下賜(かし)
されることとなり、勅使とともに御廟に詣でられました。
観賢僧正は廟窟(びょうくつ)を開いて、禅定に入っておられた大師の
尊容を拝します。すると、髪の毛は長く伸びきって、法衣はボロボロで
あった。そこで頭髪を剃って、下賜された檜皮(ひわだ)色の法衣に
更衣しました。と、ここまでは有名な話ですが、この話には続きがあります。

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勅使お付きの人夫が大師御廟参詣の後、帰ろうとすると、弘法大師
御廟橋まで送ってくれたという。不思議に思って観賢僧正に「どうして
大師は人夫の者までわざわざ送ってくださるのか?」と問うと、
観賢僧正は、「弘法大師は人の身分の上下でお送りしているのではなく
すべての人が持っている仏性(ぶっしょう)に対してお送りしています。
これは大師の御誓願で、未来永劫御廟へ参る者があれば、信心が
ある人も無い人も必ず橋の袂までお送りされる。特に一心に信心
するものは、必ずや願いをかなえ、諸仏の浄土にお送りすると・・・」
と答えられたという。今でも奥の院に参詣する人達は必ず橋を渡った後、
振り返って一礼します。

noukyou-kouyasan-okunoin.jpg  高野山奥の院納経

高野山6(奥の院) 

高野山6奥の院)
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奥の院には、弘法大師の御廟と灯籠堂がある。
参道には、皇室・公家・大名等の墓が多数並び、
その総数は正確には把握できていないと言われるが、
20万基以上はあると言われている。
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(写真は結城秀康の墓)

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(写真は浅野内匠頭の墓)
武田信玄・上杉謙信・石田三成・明智光秀・織田信長・豊臣家等
戦国大名の6割以上の墓所がある。
(その理由は「弘法大師と高野さん2」に書いてあります。)

また、宗派を越えて「法然上人」や「親鸞」の墓もある。
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(写真は法然上人の墓)

奥の院の入り口は、一の橋と中の橋の2ヶ所あるが、
正式には一の橋から参拝する。
一の橋から御廟まで2kmの道のりとなっている。
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御廟橋(みみょうのはし)で一礼して渡ると、弘法大師の御廟。
多くの人々が訪れ、読経の声、灯明・御香の煙が絶えることはない。
この御廟橋の橋板は、三十六枚あって、それぞれに金剛曼荼羅尊の
代表37尊の諸仏諸菩薩の象徴、種子(しゅじ)というものが梵字で
板裏に彫られている。枚数が一枚足らないのは、橋全体を一つと
見ているからだそうです。
本来は、御廟橋の下に流れる玉川で手足を清め、奥の院へと
進んだのだそうです。、現在ではそのようなことはしないが、
「橋の手前で一礼し、参拝後、再度一礼する」とされている。

高野山5(金剛峯寺) 

高野山 金剛峯寺
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高野山真言宗の総本山で座主の住寺。
金剛峯寺は元は高野山全体を指すものだが、現在では
この高野山真言宗総本山を指す。
この建物も再三の火災により焼失。現在の建物は文久3年
(1863)に再建されたもの。

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春にはしだれ桜が迎えてくれる正門は、金剛峯寺の建物の中で
一番古く、文禄2年(1593)に再建されたもの。
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写真では分かりにくいが、右のほうに小さな入口がある。
このくぐり戸は一般の僧侶が使用していて、昔はこの門を
正面から出入りできたのは天皇・皇族・高野山の重鎮だけだった。
もちろん、今は一般参拝の方も正面から入ることができます。

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金剛峯寺の屋根は檜の皮を何枚も重ねた桧皮葺(ひわだぶき)に
なっています。その屋根の上に、天水桶という桶が置かれている。
普段から雨水を溜めておき、火災が発生したときに、火の粉が飛んで
屋根が燃えないように水をまいて湿らし、少しでも類焼を食い止める
役目を果たすもの。
かつては高野山全域で見られたが、今も置かれているのはここのみ。

noukyou-kouyasan-hondo.jpg 金剛峯寺納経



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にこちゃん太王

Author:にこちゃん太王
誰でも行ける!
四国八十八ヵ所霊場巡礼
凸凹カルテットで回りました